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★ このブログのコンセプト

「ぶんじんのおはなし」という題名を見ればわかってしまうように、テーマやコンセプトをちゃんと決めて始めた訳じゃないこのブログ。でも、長く続けているうちに後付けですけどコンセプトめいたものが決まってきたかな、と。

「その時、その時期に興味を持ったものを徒然に語る。面白いと思ったものを紹介し、ふーん、そんな話もあるのね、と思ってもらう。」

つまりは、趣味めいたものについて語っています。文字通り、趣味が合ったら末永いご贔屓を。

★ 管理人について

呼び名は「ぶんじん」。抑揚を付けずに、平坦に読んでください。
人間五十年とする、もうロス・タイム突入。東京の下北沢に生まれ育ち、学生の時にちょっとだけ京都にいました。
読書と散歩が趣味。そこから広がって、色んなものに首を突っ込んでいます。

★ 主なカテゴリー

何でもありのブログなので、順番に読んでもとりとめがないかも。一応、下記の通りに分類してみています。それぞれ、リンク先に飛んで行ってみてくださいな。
などなど。




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「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展トークイベントはアートと歴史ミステリーと江戸文化論と盛りだくさん [美術 : 美術展、写真展紹介]

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★ イベント概要

Windamさんの招待で、サントリー美術館で11/16から始まる「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展を記念したトークイベントに参加してきました。

企画展の内容は、公式サイトによると
江戸時代中期、秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ・1749~1780)を中心に、現在「秋田蘭画(あきたらんが)」と呼ばれる新しい絵画が描かれました。直武は平賀源内(ひらがげんない)の秋田来訪を契機に江戸に上り、『解体新書』の挿絵を描いた人物で、32歳で亡くなるまでの短い期間に、西洋絵画の遠近法や陰影法を取り入れた秋田蘭画を制作しました。東西の美が結びついた直武の作品は今なお見る者を魅了します。本展は直武や秋田藩主・佐竹曙山(さたけしょざん)らの代表作を特集し、謎の多い秋田蘭画の実像をさぐる試みです。
というもの。いやぁ、正直いって知らない話ばかりでした。でも、このトークショーで興味津々どころか”知的興奮!”って感じになってます。面白い話ばっかりだった!!

トークイベントの前半の流れをさっと。
  • 主催者挨拶 サントリー美術館支配人 勝田哲司さん
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    • 登壇者はサントリー美術館の企画委員になっている。今企画展にもすぐに賛同してもらった。だが、秋田蘭画は知名度が低いのでアピールが必要。
    • 河野さんは秋田出身。秋田近代美術館の名誉館長。高階さんは父親が秋田出身で、秋田美術館の顧問。田中さんは秋田蘭画の専門家。ベストメンバーだ。
  • 企画展説明 サントリー美術館学芸員 内田洸さん
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    • 直武は解体新書の挿し絵を描いた画家。秋田藩角館生まれ(正確には、秋田藩に属していた角館藩の出身)。平賀源内の秋田訪問をきっかけに江戸へ。
    • 秋田蘭画は近景・遠景を組み合わせた手法などが用いられ、日本画と洋画の特徴を重ね持っている。名前の通り、18世紀後半に秋田藩の若い武士たちによって生まれた。
    • 今回の企画展は五章からなり、基本的には時系列に展示する。
    • 江戸で流行していた南蘋派の影響も受けている。逆に、伊藤若冲や司馬江漢などの南蘋派の画家たちは直武らに師事したこともあった。
    • この時代は大名の間で博物学が流行り、彼らも多くの作品を残した。
    • 現在、小田野直武の作品は個人蔵になっているものも少なくないが、今回はその多くを展示している。


全体の話のあとはメインイベントのトークショー。登壇者は下記の通り。
  • 高階秀爾さん : 美術史家、大原美術館館長、公益財団法人西洋美術振興財団理事長
  • 河野元昭さん : 京都美術工芸大学学長、静嘉堂文庫美術館館長、秋田県立近代美術館名誉館長
  • 田中優子さん : 法政大学総長
  • 石田佳也さん : サントリー美術館学芸部長 / 進行役
大学の偉い先生ってぼそぼそ喋って何言っているかわからん人も多いけど、このお三方は素晴らしかった。話は簡潔にして明瞭で、喋り方も分かりやすく、なにより熱い!内容の面白さもあって、私も興奮しながら聞き入ってしまいました。
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以下、トーク内容をベースに小田野直武と秋田蘭画のご紹介。

★ 秋田蘭画の文化論

秋田で生まれた、西洋と東洋の文化を融合した「秋田蘭画」は、今なお斬新で、興味の尽きることがない存在。そんな秋田蘭画の背景には、この当時の文化潮流があった。

鎖国の世の中ではあったが、秋田藩はこの時期、ヨーロッパと深く交流していた。それは秋田藩に限らず、長崎を通じて文物・知識が入ってきていたからで、中心はオランダ。
当時、ヨーロッパでは宗教改革・対抗宗教改革がさかん。バロック美術の時代。ところが、オランダはプロテスタントの国。共和国(王侯貴族がいない)のため、宗教色が弱い。市民中心の国なので、商業を重んじた。対日本も商業目的がメイン。美術も風景画・静物画が中心であり、その発祥の地。世界を一つの空間として認識する感覚はフェルメールなどに代表されている。こんなオランダを通してヨーロッパと関わっていた日本は、宗教の価値観によるフィルターを通さずに、ダイレクトに“新しい”文化を採り入れることができたのだ。

日本では博物学が大名の間で流行。将軍の徳川吉宗も然り。油絵(ファン・ロイエン)を輸入し、展示。多くの画家が模写したりしている。
そんな時代に登場したのが平賀源内。彼は全国から博物を集め、展示した。1770年代の話。フランスでは大百科事典が刊行された頃。そして、彼が秋田藩を訪れた時に見いだしたのが秋田蘭画であり、小田野直武だった。
秋田蘭画のアシンメトリー感は ヨーロッパ絵画にはなかったもの。のちにヨーロッパへ逆輸入され、ジャポニズムへと続いていく。
その一方で、ヨーロッパの自然・物を見る目を取り込んだのが秋田蘭画。西洋画の陰影法をきちんと使いこなしたのがその特徴。実は、遠近法自体は浮世絵にもあったので新しいものではない。
例えば、「児童愛犬図」でも陰影法を使っている。これは、単なる模写ではないオリジナルな存在と言える。

安部工房は秋田蘭画をクレオールとして捉えていたが、言い得て妙。

★ 直武ミステリー

そんな魅力的な秋田蘭画ですが、さらには歴史ミステリーとも呼べる“謎の歴史”という面もある。

アムステルダムで刊行された書籍を日本一、所有していたのが平賀源内。ヨンストン「動物図譜」、ルンフィウス「アンボイナ島奇品」など、当時の博物学の書籍を読んでいたのだ。
そんな平賀源内は本草学者。本草学とは、単に動植物などを分類するだけではなく、それらを活かした産業を興すこともその目的としていた。鉱山開発もその一つで、平賀源内は日本国中を歩き回っていた。
写実アートと産業開発と、双方を目指す平賀源内が角館の五井家に泊まり、その際、小田野直武と出会ったのだ。その後すぐに直武は、銅山方吟味役に(臨時で)就き、江戸に”出張”。平賀源内宅に住み込むこととなった。藩の役職を持っているのだから、通常は江戸藩邸で仕事をするはずなのだが、なぜか平賀源内の元で働いているのだ。
さて、そんな銅山吟味役の任期は三年だった。ところが小田野直武は三年を過ぎてもあと一年、平賀源内の元に留まる。その後、角館に戻り、親藩の秋田藩士になるのだが、すぐに秋田藩士として参勤交代メンバーとなり、また江戸に行っている。
ところがところが、直武がまた秋田に呼び戻される。なにがあったのか不明なのだが、“懲戒”処分だった。直武が帰国したその直後、平賀源内が殺人事件を起こし留置され、留置所でなくなる。さらに、直武も直後に死亡する。
二人の死は偶然だったのか。直武はなぜ、呼び戻されたのか。そもそも、直武は源内の元で何をしていたのか?二人の間には何があったのだろうか。謎は謎のまま、今も霧の中なのだった。

★ グローバリゼーションと江戸時代

そんな“事件”の背景となっていたのか、さらにこの時代の様子を見てみる。

直武が挿絵を描いた解体新書。表紙はワルエルダ「人体解剖図説」を使った。だが、男性の陰部を隠すなどしているところに違いが。
解剖図は「ターヘルアナトミア」からコピー。引き写し(トレーシングペーパーを使った転写)したのではないかと思われる。サイズも同じなので、たぶんそうではないかと思われる。引き写しというトレーシングペーパーの技法は日本の浮世絵でも使われた。

直武は、平賀源内に会って一年後に「解体新書」の挿し絵を描いている。直武にはそれだけの素質・技術があったからだろうが、「ターヘルアナトミア」は銅版画。それを木版画で”模写”した技術は日本画のものであり、かなり苦労しただろうと思われる。
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世界情勢を見てみると、マニラ港が十六世紀末に海港。ここに至ってグローバリゼーションは完成された。世界は一つに結ばれたのだ。そんな世界の動きに合わせ、日本も朝鮮に進出していく。秀吉の朝鮮出兵がそれだ。
江戸時代もその流れを汲み、外国の文物・知識を輸入している。しかもその際、日本の職人が技術を習得し、自ら作る。輸入した“モノ”をそのまま使うだけではなかったのだ。

興業・産業奨励のため幕府は各藩に産物リストを提出させる。各藩は絵師も雇い、絵付きのリストを作成する。そこにはアートの技術も必要となっていて、美術の興隆にも影響した。
そんな中、平賀源内は、一つの藩の為に働いていてもしょうがないと思い、脱藩し、江戸に出てくる。日本全体を考えるようになっていたのだ。彼は初めて“江戸の言葉”で浄瑠璃を書いていたりもする。その頃、文化の中心は江戸に移っていたから。そして、オランダ貿易を通じ、ヨーロッパのみならず、アジアの文物・知識も入ってきていて、源内は貪欲にそれを吸収していったのだ。

さて、実は田沼意次は開国を考えていたらしい。造船を計画し、ロシアと交易を始めようとした。だが、他の勢力に阻止されてしまった。そんな時代に平賀源内や直武は生きていたのだ。これらには何か関係があったのだろうか。秋田は鉱物の産出量が多かった。だから平賀源内が訪れた。そして、秋田はロシアとも交流があったのだ。
謎は深まる。

★ そして秋田蘭画を振り返る

美術としての秋田蘭画を見ていく。
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小田野直武の描いた「不忍池図」は秋田蘭画の傑作。以前は秋田県知事室に(無造作に)飾られていたが、今は秋田県立美術館に収蔵されている。
90センチ以上の大きな絵。床の間に飾るにはデカすぎる。なぜ、こんな作品を描いたのか?
  • 結婚の祝いのために描かれた
  • 秋田江戸藩邸が三階建て新築する。そのために描いた
  • 自分の死期を悟り、最期の遺作として描いた
などの説があるが、これも謎のまま。
一見すると洋画なのだが、絹に日本画の画材を使って描いた。その点では日本画と呼べる。さらには描かれた芍薬はリアリズムだけはない、伝統的なシンボリズムも含まれていると考えている。

わざわざ植木鉢を用いている。日本にはないものだったので、輸入品だろう。しかも、角度的に見えないはずの、鉢の土が見えている。部分部分を再構成して、複数の視点が混在して描かれた構図なのだ。
さらには、小さな蟻が三匹、描かれている。実際には見えないはず。”近像型構図”の一種とも言える。桃山時代の山水画に影響されたのか、いや、西洋のボタニカルアートの影響なのか(この説に関しては荒俣宏氏が語っている)。

複数視点で描くのは日本的だ。遠景・近景はあるが、中景がないのも日本画の特徴。
西洋の静物画は死んだ自然(切り花だのなんだの)を描いているが、日本画は生きた自然(花は地面から生えている)。だから、植木鉢を不自然に配置しても、切りが花ではない、生きた花とするためには必要だったと思われる。

「燕子花にナイフ図」を見てみよう。日本画には背景がない。でも、ナイフを斜めに置くことによって空間を演出している。伊藤若中の作品も複数視点。広重の名所図絵も然り。空間の認識とその表現が日本的なのだ。
さらに、「不忍池図」は四季も複数、含まれている。蓮が池にないので冬のはず。でも芍薬は秋。時間的にも重なっているのだ。

そんな小田野直武の作品だが、今回の展示総数160点のうち、秋田蘭画80点出品で直武の作品は30点。
直武の現存している作品は非常に少ない。若くして(享年32歳)亡くなったこともあるだろう。そんな意味でも、「秋田のフェルメール」とも呼べるかもしれない。


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いやぁ、これは面白い!そして勉強しなきゃいけないことが山ほどありそう。平賀源内は小学生の時、夏休みの自由研究でちょっと調べたこともあり、親近感があります。でも、知らない話も多かったなぁ。
まずは「本草学」の産業振興との関係を調べてみるか・・・。

★ 美術展情報

「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」展は下記の通り、開催予定。






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